オペラは3時間くらい続くし、途中で入退場して周りの人に迷惑をかけないために、水分を摂るのは控えめにしよう。店員さんには申し訳ないけど、お断りした。
しかし、明智くんと入場列に並んでいる間も、私はずっとあの店から漂う良い香りに誘惑されていた。
[player]この香り、絶対美味しいお茶なんだろうな……。
と、小声で呟くと。
[明智英樹]この列だと、あと20分はかかるでしょうね。ちょっと待っててください、すぐ戻ります。
[player]ちょ、明智くん?
どこに行くのと尋ねようとする頃にはもう、明智くんは視界から消えていた。
そして、暇すぎて壁に貼られたポスターの枚数を数え始めた頃に、明智くんは見覚えのあるロゴが描かれた袋を手に戻ってきた。
[player]あれ、これってさっきの……?
[明智英樹]見学してる時ずっと手を擦り合わせていたので、寒かったんだろうなと思いまして。これで温まりましょう。
[player]それで、これを買いに行って来てくれたの?
[明智英樹]はい。さっき飲みたそうな顔をしていたような気がしたのですが、もしかして勘違いでしたか……?
[player]ううん、飲みたかった。よく気付いたなって思っただけ。
[明智英樹]今日は君へのお礼なので、君の気持ちを最優先にしなくちゃ、ですからね。
明智くんは袋からドリンクを取り出して、慎重に渡してくれた。
[明智英樹]はい、どうぞ。結構熱いので、気をつけてください。
[player]ありがとう。……明智くんのは熱くなさそうに見えるけど、店員さんが間違えたとか?
[明智英樹]いえ、熱くないものを頼んだだけです。僕はそれほど寒くないので。ただ……。
[player]ただ……?
[明智英樹]二杯目が半額と言われて、つい……。
[player]……ぷっ。
明智くんは、見た目からはとてもそういうのにつられるタイプに見えない。だからこそ余計に笑えてしまう。
[明智英樹]さ、さぁ、入りましょう!
ホールに入ってようやく、「一飜市最大級」を実感出来た。
金と赤がランダムながらもバランス良く空間全体を彩り、各所に配置された金色のオブジェがいい味を出している。統一感のある空間にいると、まるで自分が小人にでもなったかのような感覚に襲われる。
[player]5000人も入るホールなのに、ほぼ満席なのはすごいね……。
[明智英樹]音楽に言葉は要りません。たとえ他の言語で書かれていても、感情の流れやストーリーを肌で感じられる……この不思議な感覚も、オペラの人気に一役買っているんです。
[明智英樹]しかも今日は有名な歌手が揃っていますから、満席になるのも頷けます。
[player]そうだったんだ……。チケット代、きっと高かったよね。何だか申し訳ないな。
[明智英樹]君が楽しんでくれるなら、これくらい大したことありませんよ。それに私も、今日は珍しい体験が出来ましたし。
[player]珍しい……?
明智くんが手に持ったコップを軽く揺らすと、ドリンクがちゃぷちゃぷと音を立てた。
[明智英樹]いつもなら僕は同じ物しか買いませんが、君が選んでくれたドリンクはちょうど良い甘さで、意外と美味しかったです。
そんな雑談をしていると、観客も入場し終わり、開演のベルが鳴り始めた。明智くんに「しーっ」のジェスチャーをして、幕が開くのを静かに待つことにした。
[役者A]はいはい、わかりましたからあの可哀想なドアベルを虐めないで……あら、ごめんなさい。てっきり同居人かと……。どちら様?
[役者B]すみません、金さんはこちらにお住まいでしょうか。昨日伺うと伝えたはずなのですが。
[役者A]それなら住所が違いますわ、ミスター。金さんは隣の家です。あそこのお庭にいるラブラドールは狂暴なんですの、どうぞお気をつけて。
[役者B]確かにそうみたいだな。けれど、君が扉を開けた時僕は確信した、主が僕をここに導いて下さったのだと。美しいレディ、僕は今二十四歳で、両親は健康で家庭環境もまあまあだし、経済力だってそこそこ……。
[役者A]ミスター、ミスター? いきなりどうなさったの、そんなことを言い出して。
[役者B]君が扉を開けた時、僕は君に一目惚れしたんだ。
今日私達が観ているのは、ここの十大看板演目の中の一つ、「杏の花と静かな雨」。貴族の御曹司が庶民の女性に一目惚れし、二人は地位と宗教の差を乗り越えて愛し合うが、御曹司の父親の猛反発に遭い、悲しい結末を迎える……というストーリーだ。
御曹司役の歌手はやんちゃな放蕩息子を生き生きと演じ、観客から喝采を得ている。
薔薇の花束を手に、雪の中片膝立ちで彼女への愛を歌い出すと、観客の誰もが彼に共感せざるを得なくなる。
でもやっぱり何かが足りないんだよな、と思いながら隣の明智くんをチラッと見る。
明智くんは相変わらずゆったりと座り、優しい表情でオペラを楽しんでいる。もしかしてこれが本当の御曹司なんじゃないかとつい思ってしまった。
[明智英樹]……?
私の視線を感じたのか、明智くんは目で「どうしたんです?」と聞いてきた。慌てて頭を横に振って何でもないと伝え、もう一度ステージの上に注意を向けた。
重々しいメロディの中、厳格な父親が息子の恋に気付いてしまう。家族への裏切りだと言って息子を軟禁し、「正しい」結婚相手に会わせる。
愛し合う二人が引き離され、御曹司は彼女を守るため父親の言うことに従う振りをしなければならない。父親は御曹司の誕生日に婚約の発表をすると決めたが、その当日、愛に苦しむ御曹司は反旗を翻した。
[役者B]紳士淑女の皆様、本日は私の誕生日パーティーにお越しくださり、誠にありがとうございます。本日、私は皆様にお伝えしたいことがございます。
[役者C]ゴホン、我が息子が失礼した。気にせずパーティーを楽しんでくれ。……いいか、お前は黙って部屋に戻れ。そうすれば不問にしてやる。
[役者B]父さん、私はもう決めたんです。
[役者C]黙れ!
[役者B]父さん、その杖で私の背中を叩いても無駄です。部屋に閉じこめられたら毎日大きな声で宣言しますし、たとえ私の舌を切り落としても紙とペンで書き続けます。
[役者B]私は——とある新聞社の編集者を愛しています。彼女は自由とロマンを胸に、毎日を楽しみながら生きています。私は彼女に真心を捧げると決めたのです!
[役者B]今までもこれからも、未来永劫、私は彼女一人しか愛しません。彼女を花嫁にし、私の姓を授けたいのです!
[役者C]黙れ、このバカ息子が! とうとう気でも狂ったか!
[役者B]父さん! 私はただ、一人の女性を愛している、それだけです。いかなる法にも触れては……
[役者C]今の地位があるのは誰のお陰だと思ってる! わしが今までお前に甘過ぎたのが悪かった。一家の長を怒らせるとどうなるか、今日こそ思い知らせてやる! さっさと連れ出せ!
幼い頃から順風満帆だった御曹司、自分の親が最大の障害になる日が来るとは思ってもいなかっただろう。言葉で抗ったものの、結局彼は地下室に閉じ込められ、心身ともに日に日に衰弱していくことになった。
物語が始まった時にはあんなに溌剌としていた人がここまでの仕打ちを受けるのを見て、ただのお芝居だとわかっていても可哀想だと思ってしまう。
全てを奪われた御曹司は地下室に差し込む月の光に向けて深呼吸し、愛する人への思いを言葉にしようと口を開いた。どんな悲しくも美しい歌が飛び出すのだろうかと、勝手に期待していると……。
[役者B]愛する人よ、この命が枯れる前に——うわぁ!?
最初のワンフレーズが流れたその時、ホールが急に真っ暗になった。
[player]な、何事!?
ホールには窓が無いので、照明が落ちると正真正銘の真っ暗闇になってしまう。これもオペラの演出なのかと一瞬思ったが、演者さんもびっくりしていたから多分違うのだろう。
[明智英樹]PLAYERさん、大丈夫ですか?
[player]大丈夫。これ……そういう演出とか?
[明智英樹]残念ながら、多分違うと思います。停電したのかもしれません。はぁ……オペラにするんじゃなかったですね……。
[player]明智くんのせいじゃないよ。
[明智英樹]いえ、来る前にちょっと迷ったんですよ。ここの看板演目はどれも悲劇で、不吉だなと思って。
[player]え? ……そういうの、意外と気にするタイプなの?
[明智英樹]そこまで信じてるつもりはありませんが、祖母の影響かもしれません。毎年祖母の家に帰省するのですが、あの人は信心深いので。あ、でも一度も僕に強要したことはありませんでしたよ。
[player]へえ、おばあさんと仲良しだから、言い伝えやジンクスも身近に感じるんだね。
[明智英樹]ええ……それもあって、悲劇を見ていたら停電に遭ったのが、もしかしたら僕のせいなんじゃないかと思ってしまいました。せっかく誘ったのに。
明智くんの声には、はっきりと後悔の色が出ている。今回のお出かけに本気なのが伝わってくる。
[スタッフA]ご観劇の皆さま、劇場内停電により、ご迷惑をおかけして申し訳ございません。ただいま予備電源に切り替えています。照明の復帰は約十五分後を予定しております。それまで慌てず、お席で今しばらくお待ち下さい。
停電で放送も使えないようで、劇場のスタッフは拡声器を使って停電のことをホール内に知らせている。困惑や不満はあるものの、観客はみんな落ち着いて席で待っているようだ。
拡声器を持ったスタッフの他、懐中電灯を使って秩序を守ろうとするスタッフもあちこちにいる。
わずかな光により、完全な暗闇ではなくなったので、ややリラックス出来るようになった。明智くんの方を見てみると、彼も同じようにこちらを振り向いて微笑んだ。
一分、二分……暗闇の中だと十五分でもいつもより長く感じちゃうなと思っていたら、明らかに十五分経ったと思われるような時間になっても、劇場内の照明が復帰する気配は全く無い。
スタッフの懐中電灯の光は、この5000席を収容出来るホールの中では心許ない。なぜか起動しない予備電源に、痺れを切らした観客達の声が上がるようになってきた。
さっきまで静かに待っていた観客達も、スタッフに向けて不満の声を発し、ホール内の雰囲気が一段と重くなってきたような気がする。
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